人間を選ぶ事の大切さ②。過去編。
Takatoです。
上の記事を元に昔話の続きをします。
記事には「親は味方」的な事が書かれていますが、理想論です。
確かに、親は子の味方。「そうであるべき」と思う必要も本来はないはずですよね。子を持てば愛情を感じる。でも、その愛情が真っ直ぐであるとは限りません。
そう思うようになった切っ掛けは俺の両親にあります。
現在では「普通に会話」をする程度にまで関係は改善しています。それでも、俺が過度のストレスの積み重ねで味覚障害と表情がなくなり倒れた後の事。30の頃からです。俺の感覚的にはまだ「赤の他人」レベルです。
そんな不出来な親との関係についてお話しをします。
まず、おふくろ。絵に描いたような見栄っ張り。四人兄弟の長女で、過度の期待を背負って育てられました。爺ちゃんや婆ちゃんも結構癖のある人達だったので、負のスパイラルの元でもあります。現実や相手の心境を考えず綺麗事を言っては追い込むような人。学生時代は優等生。
親父はおふくろより6歳年上で不器用な男。真面目なのですが、愛情の示し方が分からない上に言葉が足りないのでよく俺と喧嘩をしてました。こちらの爺ちゃん婆ちゃんも更に一癖二癖もある人間なので、この親でこの子ありと言った印象です。8人兄弟ですが、親父も含めて爺ちゃん達との仲も良くはない。学生時代は先生を困らせた挙句、追い出されて校庭を走った方がいいと思うような問題児。
そんな二人が何故くっ付いたのか永遠の謎だが、若くして結婚。俺が生まれました。
俺は子供の頃は割とどこにでもいる男の子でした。結構笑う、明るい子供だったと親戚には聞いています。
今思うとそれ別人じゃね??とか思うのですが、物心がはっきりした小学校の頃から既に「大人」である事を強いられてきたので、俺や周りが別人と思っても仕方ないのかもしれません。
小学校の男子といえば、そりゃぁ悪戯の1つや2つやってもそれが自然です。それを親が子供の目線に合わせて、何故やってはいけないのかと一緒に考えてみる。子供の出した答えを聞いて、足りない所は導いてやる。
俺としてはこうだろうと思うのですが、両親はとにかく怒鳴るだけでした。怒鳴るだけ怒鳴って、季節関係なく子供を外で三時間は立たせる。その後、反省点はなんなのかも教えず、こちらが「ごめんなさい」を言うまでは不機嫌。謝っても数週間は話さないような親でした。
また、親としてやってはいけない事の1つに「お金の話をしてはいけない」と言うのがあります。心理学的にもこれは子供に罪悪感を抱かせますし、不安で誕生日やクリスマスのプレゼントも頼まないような子供になる可能性があります。俺もそういう子供で、鉛筆を頼むのも躊躇した程です。
もう一つは食卓での会話。両親は既に現地語で話していたのですが、こちらはワケワカメ。食卓と言えば、子供とのコミュニケーションの場として大事な時間なのですが、そんな素晴らしい時間はなかった。もっぱらテレビを見て、会話の邪魔はしてはいけない。そんな風に思うようになりました。
両親がいつからそうなったのか、俺も理由は知らない。それでも、7歳や8歳の子供にとって十分恐怖ですよね。気付けば低学年なのに家で敬語を話すような子供になっていました。精神的にも早熟で、担任に心配された程です。
亀裂が決定的になったのが海外に渡った一年目。当時12歳。
海外一年目といえば、まず言葉が通じない。日本語学校は七年生まであり、結局小学校を二度卒業する羽目になりました。
そんな一年目ですが、とにかく辛かった。
まず、三ヶ月も経たないうちに日本語禁止令が出されました。早く現地語を話せるようにという考えなのでしょうが。話せませんよ、普通に。
学校では既に前回のイジメグループと仲悪く、授業も言葉が分からない俺を国語の先生も面倒だと思ったのか、単語を一つも教えてくれませんでした。
そんな学校生活で日本語を封じられたのだから、たまったものではない。覚えはすこぶる遅かった。
厄介だったのは、家でうっかり日本語を使えば怒られていた事。「学校どうだった?」と聞かれても現地語で「良かったよ」と言える事から始めました。怒られるくらいなら、適当にあしらって自室に籠った方がマシ。辛い感情は自分で処理する道を選びました。
勉強もアルファベットから覚えないといけなかった。学校で慣れない文字を読んでノートに写す。現地のアルファベットは人によって特徴があるので読めない事や読み違いも多々ある。仮に間違えていても、存在する単語かどうかも分からないので判断ができない。
そんなある日、自室で理科のノートを開いて単語を辞書で確認していました。書き間違いや慣れない辞書引きでたったの3ぺージを三時間以上掛けて調べていた夜の12時。年齢の割には日本の新聞は読めるレベルだったのですが、初めてみる日本語も当然あって何の事かも分からない。それを現地の辞書を開いて翻訳しないと理解できない。辞書を引いて、辞書を理解する13歳。シュールかもしれません。
悪戦苦闘していたら、おふくろが様子を見に来て、あろうことか突然小テストっぽく質問をして来ました。
日本語なら答えられるかもしれない、でもそれだと怒られる。沈黙の後どうしようもなかったので、素直に「覚えていません」と日本語で伝えたら、信じられない衝撃の一言。
おふくろ「何時間もやって答えられない。こんなことじゃ、医者にはなれないわね」。
当時の夢が医者になる事だったのですが、それを否定された瞬間でした。悔しいけど、何も言えない。悲しいけど、言う通りかもしれない。そう自分に言い聞かせて耐えました。現地語で言えば分からなかったのに、わざわざ通じる日本語で言う辺りも憎らしい。
海外に渡って半年。精神は既にボロボロ。夜は学校や新しい1日が怖くて眠れず、不眠症に。仕方がないので、寝るのは諦めて日本から持ってきた音楽のCDを漁り、慰めてくれるフレーズを探しては再生。何度もリピートしては聞く。
特にZARDの「負けないで」なんかは擦り切れる程聞きました。誰も慰めてくれないなら、CDの声でも良い。誰かに慰めて欲しかった。
「負けないで」効果もあり、なんとか持ち直したもののやはり12歳。長くは続かなかった。
おふくろとの亀裂が決定的になったのは、1ヶ月に1回ある親戚の集まりの日。うちは曾ばあちゃんが子沢山で、婆ちゃんも同様。その子孫も子供がいて、全員で80人はいるんじゃないかという大所帯の家系。そんな数相手に俺は何故かウェイター係をやらされていました。他の親戚の子供が不良だったので日本育ちの俺が扱いやすかったのでしょう。
大人達が食べる間、飲み物や料理を運ぶ。やっと運び終わったと思ったら、追加のビールや料理の注文。80人もいれば食べる暇もなく、料理も冷めてしまう。完全タダ働き。
その日は結局食べずにテーブルも綺麗にして、コーヒーも持て行って、やっと座れると思ったその瞬間。突然、無性に泣きたくなりました。
ここは楽しい所なんて真っ赤な嘘。学校だって辛い。家では何も言えない、話せない。明日が怖い。眠いのに眠れない。この人たちだって名前すら覚えていない。もう、無理。
深く考えずにいる事で保っていた精神は限界。考えたくもないのに、次から次へと本音が心に響く。苦しくなり、それから実に15年以上続く慢性的な胸の痛みを感じるように。
痛みに耐えていたその時。俺の表情を察知したのか、親戚が親に報告(と言う名のチクり)をした。
呼び出された結果、怒られました。
おふくろ「なんて顔してるの。みんなが変な子だと思うからやめなさい」。
この女は何を考えてるのか。どうせなら、俺を堕ろしてくれれば良かった。おふくろに親失格のレッテルを貼ったのはこの時です。誰かが辛そうな顔をしているなら「どうかした?」と心配するくらい子供の俺でもやれる事。それすら出来ないおふくろに腹が立ちました。
以降は消えない胸の痛みをコントロールしつつ、何かが壊れたように勉強漬けの日々。
日本に逃げるにしてもお金がない。家出をしようにも、生きていける訳がない。それなら、とっとと現地語を学べば少しは楽になるかもしれない。そう思った記憶があります。
ただ、何かしらの支えは必要でした。音楽や本を読んで優しい言葉や場面を探したり、禁止されたゲームの面白かった会話や場面を思い出したり。夜は眠れないので飼い始めたばかりの愛犬を撫でて、スヤスヤ寝てしまうまで温もりを感じたり。
思い出すだけで淋しいのですが、当時は他に心を保つ手段がなかった。
小学校は猛勉強の甲斐もあって卒業。頑張ったけど、嬉しくありませんでした。
影の薄い親父とも会話が出来ないので既に疎遠でした。まもなくして、父親失格のレッテルを貼る事になるのですが、それは次回の話。