猫と恋人とTakato。

三十路が語るあれやこれや。

LGBTの在り方について。

Takatoです。

前回ものすごーーーーい毒を吐いて投稿するか悩んだのですが、結局強行したのは実はいくつか理由があります。

これは元ノンケという立場上、経験談、あるいは様々な人に話を聞いて「やっぱ申し訳ないけど投稿しよう」と言う事になったのです。

理由として、1つは自分自身LGBTの内にいるという自覚がある事。もう一つはLGBT自ら作り出してしまった偏見はある程度今から改善していけたらと思ったからです。

無論、偏見というのはきっと誰しもあるもので、避けられないものと考えています。問題はその量と質にあるんじゃないかと思っています。

今回は二つ、世間一般のイメージ及び偏見を述べていきます。

①性にだらしない。

前回、散々怒ったがこれは日本だけではなく、こちらの国でもイメージされている。もっと酷いのは「同性なら誰でもいい人種だ」みたいな酷い声も。

こちらからすると、異性愛者も「イケメン美女」なら誰でもいいじゃないのかというイメージはあるかもしれないが、彼らはヘテロセクシャルがマジョリティな世界で生きているという圧倒的に有利な世界で生きている。おまけに子供も出来る。よって、世界がまわるのは自分達のおかげなのだ、LGBTには生産性がないという心理も少なからずあるはず。世間体は気にするが、異性愛者は奔放であっても国にとってメリットもあるのだ(ちゃんと子供を育てられなければ道徳的にアウト)。

メディアで「14歳の母」だとか未成年の妊娠には触れても、大人になった際の「できちゃった」に関してはほぼ触れないのは無意識に「少子化防げる」などと思っているのかもしれない。同じ奔放であるのにだ。

しかし、こちらはマイノリティ。特に身体が男性である場合は子供も出来ない。それでも実際には世界はまわる。少子化の国にはもっと違う、関係ない理由があるのにLGBTのせいにされたりする。

そして、その事を理解する人で偏見を持つ人はいる。なぜだろうか。一つ考えられるのは「性のだらしなさ」だと思っている。

無論、みんながみんなそうではないと確信はある。真面目なLGBTも多い。

ただ、近年インターネットにより今まで公にされなかったLGBTの恥部が広く知り渡ってしまったのが原因になっている気がするのだ。

一つは「公共施設の発展場」。公園やら、どっかの駅のトイレやら銭湯やら調べたらわんさか出てくる。写真もあれば、動画を載せる人さえいる。彼らにとってはパラダイスだろう。

しかし、考えて見てほしい。異性愛者はそもそも公共施設の発展場がどこなのか「知らなくてはいけない理由」なんてどこにもないのだ。同性愛者にとって暗黙の了解でも、異性愛者がたまたまそこにいて同性に迫られたら、まず恐怖を感じる。同性愛者が無理やり異性に迫られるのと同じ嫌悪感のはず。

そもそも公共の場でイタス事は異性愛者でも犯罪なのだ。異性愛者の場合はマジョリティという盾もあるので、道徳的な事以外は何も言われないが、同性愛は違う。同じ事でも大きな弱点になってしまうのだ。

そして、LGBT反対派や侮辱派は喜んで弱点を使うだろう。政治家のヘイトスピーチやユーチューバーで同性愛をネタに「友達が寝ている間に隣で同性愛性行為(のフリ)」や「宅配を呼んで、性行為(のフリ)」だとかバカな事をやって広めているが、わざわざ武器を与えてしまったのも一部では我々LGBTの責任だ。

無論、こちらも頑張っています。そんな事しません。真面目にやっていますと思う人もいるかもしれない。だが、そちらは放ったらかしにして大々的に権利を主張する。

そして、これもまた意外に問題になっているのがこちら二つ目。

ゲイパレードに関して。

これは個人談だが、10代後半の頃こちらでゲイパレード(らしき何か)の集まりがあり、ちょうど近くで友達と遊んでいたら、すれ違った団体のお姉様(T)の方々に迫られて、手術で大きくした胸を出して「イェーーーイ」とやってきたのが物凄く怖かった記憶がある。小さい子も近くにいたので、「何考えてるんだろう」と呆れた覚えも。ただの痴女である。

無論、それで偏見を持つことはなかったが、良い事ではないなと。

そして、近年もゲイパレードが開催されてるのをテレビで見るが、ぶっちゃけ本心を言えば「何を求めているのかが分からない」だった。

異性愛者と同等かそれに近い権利」を求めているのは情報でわかる。パレードをするのも、ある意味自己主張の一つなので反対もしていない。問題はその「やり方」。

服を着て主張する分にはいいのだが、それに乗じて「過剰な露出」をするのは如何なものか。そして、カメラがまわればテンションが上がり、更にはっちゃけて恋人とこれまた過剰に絡んだり、異性愛者にちょっかいさえ出す我らがLGBT。自分達も普通と言いたいはずが、普通はしない事をわざわざカメラの前でやるのか。

これでは「権利を求めているのか」それとも「単純に馬鹿騒ぎがしたいのか」はたまた「外で露出する権利を求めているのか」申し訳ないが物凄く混沌としてイマイチ熱意が伝わらない。頼りなのは、「権利を主張」の文面だけである。

そして、そんな醜態を各メディアに載せられるのだから、一部の偏見は加速する。「LGBTはやっぱりおかしい」と思われて、嫌われてしまう行為をわざわざやってしまっているのだから、非常に勿体ない。影響力あるメディアを通じて叩かれる理由を増やしてどうするのだ。学校で疑惑をかけられた精神的に未熟な子供が「お前もそうだろ、脱げよ」といじめられる様を想像した事あるのだろうか。実際にそういう子はいたのだ

自分はLGBTに対して理解を深めたいと思うが、このやり方に関しては大変申し訳ないが賛同できない。極めて真っ当な「権利」を求めるなら、それ相応の主張の仕方を考えた方が良い。

因みにこれは知り合いにも聞いたが同じ意見で、ゲイの知り合いも「あれは恥ずかしい」と頭を抱えていた。同じLGBTパレード参加者でも迷惑に思っている人も少なからずいるらしい。

「過激な露出したいのがマイノリティの中のマジョリティだよ」と思うのなら是非考え直して欲しいと思う。必要性があるのかどうかを。

③結局何が足りないのか。

今回は2点に触れたが、最後に自分なりに現在のLGBTに何が必要か考えてみた。

まず感じるのが、同じLGBTの間違いを見つけ、指摘する必要性があるのではないかと思う。同じLGBTみんな仲良し、臭いものには蓋をしようなんてやってしまったら望んだ状況改善は程遠い。1番恐れないといけないのは、同じLGBTが犯す過ちなのだ。外を見るのも良いが、本当は1番内側に目を向けないといけないはずではないか。今まで蓋をされて苦しんだのなら、それを外して自らの暗部に蓋をしてはいけない。

また、大事な理解ある異性愛者に対して、自分達は何ができるか考えた事はあるのだろうか。今の所、主張する所は主張します、だけど自分達は変わらないこれがLGBTだと言っている気がしてならないのだ。せめて、異性愛者に迷惑を掛けないくらいの事は心掛けたい

最後に、個人的な思いを書きたいと思う。

個人的な話だが、今の恋人と付き合うまではLGBTとの関係は薄かった。それでも、彼がもっと住みやすい世界ならなと思う事も多々あるのだ。それはカミングアウトだったり、色んなしがらみの中で悩んでいるのを実際に見ているからだ。恐らく、これから何十年、何百年経たなければ望んだ状況にはならないかもしれない。人生はきっと終わっている。それでも、今後の世代のLGBTがより暮らしやすい世の中を与えられるのは現LGBTの自分達ではないだろうか

悪いイメージを与えてしまったのが現LGBTなら、反省しなければならないのも我々なのだ。

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